感謝の証し

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感謝と聞き従いは勝利の鍵
すべての事について感謝する

 

感謝と聞き従いは勝利の鍵 ダビデ前田

 

信仰によって従う

 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。(創世記12章1~4節)
  アブラムは、75歳という高齢であったにもかかわらず、神様のことばを受けると、慣れ親しんだハランの地を離れ、約束の地カナンへ旅立ちました。そして、忍耐は通されましたが、最後まで神様を恐れ、神様に信頼し、従った結果、語られたことばの成就を見ることができたのです。
  聖書には、アブラハムをはじめ、神様からの大きな祝福を受けた器たちのストーリーが、たくさん記されています。ノア、モーセ、エリヤ、ギデオン等々。神様は彼らを通して、偉大な御業を現され、栄光を現されました。
  ある方は、彼らが用いられたのは、神様が選んだ特別な器だからだと、考えられるかもしれません。確かに、彼らは神様の選びの器でした。けれども、聖書を見るとき、彼らが用いられた(あるいは選ばれた)理由に気が付きます。
それは、彼らが神様の語られたことばに、信仰によって従うことを選んだ器であったということです。
  神様は、私たち一人ひとりに対しても、最善の計画を持っておられ、最善の道を備えておられます。しかし、その計画の成就を見るため、神様の備えた道を歩むためには、私たちが神様に祈り、神様のことばを受け、語られたことばを、信仰を持って受け止め、信仰によって従うことを選ぶ必要があります。
  もし、神様からのことばを受けたとしても、もし従わないなら、せっかくの神様からの祝福を手放すことになってしまうでしょう。
  神様は、私たちが信仰の足の踏み出しをなすことを、求めておられるのです。

東京への異動

 私は神様の恵みによって、牧師として立てられ約10年になりますが、数年前、神戸で牧会の働きを委ねられていた時、私たちの教会のセンター教会である、東京アンテオケ教会への異動という、思いがけないことが示されました。
  しかし、神戸の教会の働きは祝福されていましたし、子供を5人も抱えての引越しには多大な費用がかかることもあり、異動のことは頭の隅に置きつつ、神様の時が来たら従えるよう祈っていました。
  けれども、それから、程ない2007年2月、夫婦で長崎の地で祈りこむ機会が与えられた時に、「主がお入用なのです」という、みことばと共に、預言を通して、「あなた方が東京へ異動する時は近い。」と語られました。
  それらのことを吟味しつつ、自宅に帰った時、1通の書留の不在通知が届いていました。受け取ったその手紙は、大家さんからのもので、こう書かれていました。
  「この度、娘が結婚することになりましたので、その家に住ませたいと考えております。つきましては、恐縮ですが、3カ月以内に家を明け渡して下さるようお願いいたします。」
  最初にその手紙を見た時、「そんな非常識な話は聞いたことがない!」と驚いたのですが、神様からの語りかけを受けた直後でもあり、祈ってみると、このことの背後に神様の御手があることに気付かされました。
  とは言え、私の長女は当時中学3年生だったので、この時期の異動は現実的には不可能とも思えたのですが、彼女には夢がありました。それは、プロのサックスプレイヤーになって、演奏や証しを通して福音を多くの人に伝えたいという夢でした。
  ある朝、彼女は神様に確認を求めました。「もし私が高校へ行かずに、プロのサックスプレイヤーを目指すのが御心ならば、どうか虹を見せてください。」と祈ったのです。そして、何とその日、学校に向かう途中、彼女は、それまで見たことがないほどの大きな虹を見て、進学することではなく、プロを目指す道を選ぶことに決めたのでした。
  そして、一番の現実的ネックであった経済面も、借家の退去が大家さんの都合であったため、入居時の敷金等が全額戻って来たことを始め、多くの方々からの助けもあって、同年5月には、東京への異動が実現したのでした。
  そして、私は、東京アンテオケ教会の20人目の牧師として按手を受け、教会の奉仕と共に、教会の音楽部門の働きに携わらせていただき、非常に充実した日々を送っています。また、転居後、子供たちのクラスメイトが現在までに、7人救われるという業(わざ)も起こりました。
  長女はといえば、アルバイトを始め、家計を助けてくれながら、日々祈りと練習に励んでいました。
  そんな、ある日、彼女が中学生の頃から憧れていた、第一線で活躍しているプロの女性サックスプレイヤーとの出会いが、不思議な形で開かれ、その方に、直接指導を受けるという恵みに預かると共に、実力も認められ、サックスカルテットの一員として、一流のプレイヤーしか立つことの出来ない、Blue noteなどのライブハウスにも出演する恵みが与えられ始めており、次々と祈りの答えを受けながら、夢に向かって一歩を踏み出しています。
  最初は、不可能としか思えなかった、東京への異動という、神様が備えてくださった計画は、神様の、憐れみの手の中で、信仰の足を踏み出すことが出来、リバイバルに向かって、新たな訓練を受けつつ、前進しています。
すべてのことに感謝する
  神様の御声に聞き従うことは、私たちの祝福の基であり、信仰の実践を通して、神様の計画の成就を見るために、大変重要なことです。
  神様は、様々な形で私たちに語りかけを与えてくださいます。ある時には、預言などを通して具体的に語ってくださるでしょう。その場合、必ず、吟味した上で、神様からのものと確認できたなら、そのことばを握り、そのことばに従いましょう。
  それと共に、私たちが神様のことばを受ける中心的ポイントは、聖書のみことばです。
  みことばを通しても、神様は特別にレーマとして、直接、私たちに語ってくださいますが、聖書のみことばは、誤りなき真理のことばですから、みことばをロゴスとして受け止め、応答することによって、みことばの真実に触れ、祝福に預かることができます。
  第1テサロニケ5章18節に、「すべてのことについて感謝しなさい。」と記されています。「すべて」ですから、良いことも、悪いと見えることも、すべて感謝することを、神様は私たちに望んでおられるのです。
  それは、なぜでしょうか?
  神様は、愛する子を懲らしめる(ヘブル12:6)、とありますので、クリスチャンに試練や困難は付き物です。けれども、それは、私たちを神様に拠り頼ませるためであり、信仰を建て上げるために許されるのです。
  そして、神様は、試練と共に脱出の道も備えてくださいます。(第1コリント10:13)。
  神様は、私たちに最善以外なさないお方ですから、最初は最悪と思える状況が許されたとしても、私たちは、その背後にある神様の手を認める必要があります。ですから、すべてのことに感謝するのです。
  感謝することを通して、悪いと見えることが、神様の栄光が現されるためのプロローグであることを知り、感謝することを通して、私たちは、神様の備えている勝利を見ることができるのです。

許された試練

 それは、妻が5人目の子供をお腹に宿している頃のことでした。
  休日のドライブ中、妻が言いました。「私の財布、知らない?」もちろん、私は知りません。車の中を探しても見つかりません。落としたと思われる場所にも、すでにありませんでした。
  普段、私たちの財布には、大した額は入っていないのですが、その時は支払う前の家賃など、高額のお金が入っていたので、困ったことになったと思ったのですが、その時、私は「すべてのことについて感謝しなさい」という、みことばに従い、神様に感謝を捧げることができました。ただ、財布を落とす直前に、安価なチキン南蛮弁当を買っていたので、どうせ、財布を落とすのなら、すきやき弁当かステーキ弁当にしていれば良かったと、小さな悔いを残したのでした。
  ところが、その約2週間後。
  当時、私たち家族は、北九州市に住んでいたのですが、約200Km離れた長崎市にある、TLCCC神のしもべ長崎教会に、毎週、通っていました。その日、私は、日曜日の礼拝の後、教会員の方のお宅で、月刊誌「雲の間にある虹」のための証しを執筆しました。そして、翌日、月曜礼拝にも出席し、帰路につこうとしていた時のことでした。
再び妻が言いました。「私の財布、知らない?」
  何と、妻は2週間の間に2回も財布を失(な)くしたのです。その時、私は残念ながら、感謝することを忘れ、落胆し、嘆き、妻を責めてしまったのでした。
  そして、私たちは、高速道路に乗ることもできず、国道を通って家路につきました。
  中ほどまで進んだ頃、私は妻の悲鳴で、ハッと我に返りました。目の前に白い軽トラックが横切っていたのです。私はブレーキを踏み、思い切りハンドルを切りましたが、回避することが出来ず、衝突してしまいました。
  私の信号無視が事故の原因でした。落胆したまま運転をしていて、赤信号に気付かず、減速もせず、交差点に進入したのでした。
  相手の自動車はかなりのダメージを受けていましたが、ドライバーの方は、少し首を痛めている程度でした。私は申し訳ない気持ちでいっぱいで、ひたすら謝りつつも、「何故、神様はこのようなことを許されるのだろう?」と、さらに、落胆していました。

感謝しなさい
  しばらくして、おまわりさんが事故の検分のためやって来ました。
  「どこへ行ってたのですか?」と聞かれ、「長崎です。」と答えると、「何をしに行ってたのですか?」と聞かれたので、「神様を礼拝するためです。」と答えました。
  すると、おまわりさんが、こう言ったのです。「あなたは、クリスチャンですか? だったら、あなたの神様に感謝しなさい。普通、信号無視、ノーブレーキでの交差点事故は、死亡事故になっても不思議はないのに、この程度で済んだのは、きっと、あなたの神様が守ってくれたおかげだから、あなたの神様に感謝しなさい。」
  その言葉を聞いた時、私は、目からうろこが落ちる思いでした。最悪と思える状況の中で、神様は、何と、おまわりさんを通して、感謝することを思い起こさせてくださったのです。
  私は、それまで、つぶやいたり嘆いたりしていたことを悔い改め、許されたすべてのことを感謝しました。
  私の車は、前部が大破していたのですが、幸い運転することができましたので、そのまま、再び帰路につきました。車中、家族で、感謝しつつ賛美を捧げていると、神様に愛されているということが、理屈抜きで理解でき、不思議なことに、平安な気持ちが与えられていました。
  保険会社の方に連絡すると、このケースの事故だと、100対ゼロで私が悪く、60日~90日の免許停止と、15万円~30万円の罰金が必ず来るので、覚悟するよう告げられました。私は、当時、車を運転する仕事をしていましたので、困ったことになったと思ったのですが、そのことも主に委ねて、日々感謝し続けていきました。
  その中で、神様はみことばを与えてくださいました。それは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)というみことばでした。
  私は、語られたことばを握りつつ、さらに、感謝とともに主に最善の解決を求めて祈っていきました。
  すると、しばらくして、不思議なことに気付きました。それは、いつまで待っても警察からの出頭命令が来ないということです。そこで、私は、それまでの「少しでも罰金が安くなりますように。免停期間が少しでも短くなりますように。」という祈りを、大胆に変えることにしました。「どうか、1円の罰金も、1点の点数も引かれないようにしてください!」と。
事故から、約2カ月後、保険会社からの通知が届きました。それには、「今回の事故における、双方の車の修理代、及び、相手の方の治療費等、すべて保険での処理が完了しました。」と書かれていました。
  神様は祈りに答えてくださり、1円の罰金も、1点の点数も引かれることなく解決を与えてくださったのです。
  また、失った経済以上の金額が、その後、神様によって与えられました。
  この出来事を通して、私は、感謝することによって、神様がすべてのことを働かせて益としてくださる事を、身をもって体験することができたのです。
  神様に感謝すること、また、神様の御声に聞き従うことは、私たちが神様からの恵み、祝福を受けるための重要な鍵であり、終わりの時代に臨む私たちクリスチャンの歩みに必要不可欠なものです。
  ぜひ、神様のことばを祈り求め、与えられた神様のことばに従い、アブラハムのように、忍耐を働かせつつ、神様に信頼し続け、神様のことばの成就の時、神様の栄光の現れの時を待ち望みましょう。
  感謝と聞き従いという武器を用いて、神様が与えてくださる、大いなる勝利を共に見ていきましょう。


(月刊「雲の間にある虹」2010年9月号に掲載分より転載)

すべての事について感謝する ペテロ真境名

 

思索や感情ではなく、神のことばに立つ
  いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい、これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
第一テサロニケ5章16~18節

 主の御名を心からほめたたえます。神様は私たちを愛しています。イエス・キリストの十字架を信じ、自分が罪人であることを認め、自分の全ての罪を悔い改めるなら神の赦しを受け、神の子供となるのです。これには例外はありません。これは深い恵みです。ですからどんなに悪い事(罪)をした人でも神の前に悔い改めるならどんなに重いと思われる罪でも神様は赦して下さり、その瞬間から私たちはあらゆる祝福を神様から受ける事が出来るのです。神様は私たちをとてつもなく愛して下さっています。神様にとって私たちはかけがえのない存在です。イエス・キリストを信じ、神様の愛を受けて下さい。
  私たちを愛しておられる神様はその愛を私たちに具体的に現したいといつも思って下さっています。その愛を受けるポイントが特に18節の「すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」のみことばです。ここで書いてある感謝しなさいというみことばは、すべての事について感謝しなさいという事であります。すべてとは良いことについても悪い事についても感謝しなさいなのです。ですから例えば私の今日の夕食にステーキが与えられても感謝し、奉仕とかで失敗をして教会のP牧師に叱られても感謝するのです。(もちろん悔い改めるべきことはきちんと悔い改めることが必要です。)
  感謝することは私たち人間の感情表現のひとつですが、すべてとなると感情表現ではついていけません。良いことについては感謝出来るかもしれませんが、悪いと思われる事について感謝するなんていう感情は私たち人間のうちには湧いてこないからです。ですが、神様のみことばは、すべての事に感謝しなさいと語っています。それでは神様は、理解出来ない事を言って私たちを混乱させたいのでしょうか。そうではありません。神様はあらゆることを通して私たちに祝福を与えようとされているのです。悪いと思われる事には、ある場合にはサタンの働きであったり、私たちの失敗であったり様々ですが、神様がそれをなされるのではありません。しかし、神様は悪い事が起こる事をお許しになられます。それは神様が私たちを愛しておられるからであり 、その事を私たちに具体的に知らせるためなのです。神のみことばは感謝しなさいとあるのです。信仰の対応は感情表現とは別問題です。神様の言葉に立つとは感情を中心に行うのではなく信仰、つまり神様に言われたことに従うということを中心に行うのです。ですから思索や感情は感謝出来ないと思っていたとしても、その思いではなく、感謝しなさいというみことばに立って対応するというのがポイントです。

神の力によって従う

 しかしながら私たちの感情というものは弱く脆(もろ)いものです。私たちは感情では、その時に腹立たしかったり、悲しかったり悔しかったり、様々な思いが強くて感謝しにくいということはあると思います。神様に従う力は私たちの内に備わってはいません。従う力は神から来るのです。神にとって不可能なことは何一つありません。神様に祈り、求め、より頼むのです。その時に確かに神様は私たちを助け、信仰の歩みへと導いて下さいます。またローマ書8章28節に、すべてが益になるとあるように、感謝するという神の言葉に立って主に従うことを通して、はっきりとその実(結果)が現されるということを覚えて下さい。人生におけるマイナスや、困難な事柄の後ろに神様の計画があり、感謝することを通して神様の御業(みわざ)とご栄光が現されるということです。

借金、酒、タバコ、ギャンブル、仕事、人間関係の問題解決

 私はクリスチャンになる前、特に小さな頃から自分は運が悪いなあと思えるようなことが多々ありました。いつも弟や周りの友人たちばっかり良い事が起こっていて、私にはなぜ起こらないんだと、周りの人たちにいつも嫉妬心をメラメラさせて眺めていたものでした。食べ物、衣服、お小遣い、いろいろなことで弟や友人たちと比べて私のほうが全然下なんじゃないかなと思っていました。自分の人生そのものを恨んでいた時期もありました。
  しかし、私はイエス・キリストを信じてクリスチャンになり、感謝するという対応をとり始めてから運が悪いと思っていた状況がどんどん変わっていくのに驚きました。それは明確でした。神様に、困難にある状況を感謝し、解決を求めた時に、多額の借金完済、お酒、タバコ、ギャンブルからの解放、仕事、人間関係についての問題解決がなされ、また過去にさかのぼっても父親との確執から和解が与えられました。さらにこちらでは全く考えておらず、諦めに近かった結婚まで与えられて、現在私は、牧師として妻と子供二人の家族4人で主に仕えています。友人たちからは、こんないい加減な人間は他にはいない! もっとも家庭とは無縁な人間が結婚しただなんて考えられないと、いまだに騒がれています。人の思いをはるかに超えた神の御業(みわざ)が起こりました。主の御業(みわざ)は明確なのです。

フィリピンチームに参加して

 さて8月14日~8月17日、18日にかけてフィリピンチームが遣わされました。その派遣に恵みによって参加させていただきました。皆さんのとりなしのお祈りを心からありがとうございます。今回、1989年8月15日に起こった殉教事件から20周年を記念して行われる集会をメインに、主によって導かれた派遣でありました。15日午後に、事件が起こった元刑務所跡地で、現在は警察と軍の施設になっている場所で聖会が持たれました。当初、現地の教会のエディー牧師は、場所を借りるのに何度も断られているのでお祈り下さいと祈りのリクエストをしていましたが、主が導かれるなら主が開かれます。集会所は直前に奇跡的に許可が下り、当時の事件跡地で行うことが出来ました。
  聖会は非常に深い神様のご臨在が現され、賛美グループの賛美がなされ、ギフツもこのときに賛美の奉仕をさせていただきました。20年前の事件に関わったフィリピンの兄弟姉妹、パウロ北野牧師の証しがそれぞれなされました。その後にパウロ秋元牧師の導きで賛美、預言、メッセージの時がもたれました。預言を通して、この集会と、事件の半年後に事件が起こったその場所で主に感謝をささげ、主の勝利を宣言した集会とは対(つい)であるという事柄が語られました。また、私たちの地上での歩みは決して天と隔絶されているものではなく、今日の集会は20年前に殉教したジャッキーやジュリエッタたちも知るところで、彼女らと心は一つであり彼らとともに主をほめたたえ、働きをなしていくとのことが語られました。

叔父の召天

 私は、天と一つということに関して、その時ふと思うことがありました。2年前ほどのことでした。沖縄に住んでいる叔父が突然死するということが許されました。私は幼少から学生時代を叔父と共に生活をしていた時期がありました。その叔父は小さな頃から精神の病を抱えており、学校にまともに通う事も出来ず、いつも自宅に引きこもっていました。そのような叔父を私は恥しながら、とても疎(うと)ましく思い、叔父を軽蔑さえしていました。クリスチャンになって神様にその事を心から悔い改め、叔父に対しても心から謝罪することが出来ました。それから叔父の病や信仰のために祈っていました。叔父は私の母の弟なのですが、母から勧めを受け教会に通うようになっていましたが、病のこともあり、信仰はあまりはっきりしていなかったように思います。ですので、救いがはっきりするように祈っていきました。
  そうしましたら、ある時に沖縄で礎の石孤児院活動報告会が行われる事になり、恵みによって参加させてもらえることになりました。その時私にはっきりとある思いが明確に来ました。それはなにかというと、叔父の召天が近いので祈りなさいとのことでした。あまりに突然でしたし、そんな事は考えたくなかったので、私の思いから打ち消していました。しかし私が沖縄に数年ぶりに帰ることが決まって、その事は誰にも言っていなかったのですが、叔父から連絡が入り、私に沖縄に帰って来ないのかと聞いてきました。私はちょうど沖縄に帰るから孤児院の報告会に来ないかと誘いましたら、すぐに行くとのことだったので、私たちは約10年ぶりに再会することになりました。今思うと神様の御手だと思わされます。その時に叔父とはわずかな時間だったのですが、話すことが出来ました。しかし久しぶりのつかの間の再会を喜んでいましたら、叔父から突拍子もない事を言われました。それは叔父から「自分は死んだら天国に行けるだろうか」という相談でした。どうしたのかと聞くと、叔父が相談をしていたある方から頭の悪い人は天国に行けないと言われたとのことです。とんでもないことです。これは全くの間違いです。天国に行くのに頭の良し悪し、学力などは関係ありません。私はすかさず、それは間違いで、誰でもイエス・キリストの十字架を信じ自分の罪を認め、悔い改めるなら救われ、恵みによって永遠の命を受けます。それは自分の能力、努力とは関係ありません。そのことを説明しました。叔父はその時にイエス・キリストの十字架を信じる告白をしました。突然死はその半年後のことでした。ですから、私には平安がありました。
  このことを親族に話しましたらノンクリスチャンの叔父の兄弟達は泣いていました。また、ある兄弟は自分も罪人だと言っていました。叔父の親族から何人も連絡が入りました。叔父を通して親族の救いが現されるようにさらに祈っていきたいと思います。そして叔父との関係もすべてが益となり、私は叔父が召天し、天国で私のためにとりなし、働きのため祈ってくれていることを確信しています。確かにジャッキー、ジュリエッタらと心はひとつで、ともに神の働きを進めていくんだなということが深く心に染み入りました。

大きく進んでいく福音宣教の働き

 さらに集会ではテサロニケ第一5章16~18節の特に18節の「すべての事について感謝しなさい。それがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」から、殉教事件とその後に許されたすべての事を感謝することが語られました。20年前の事件は、世界的なニュースとなり、フィリピンの多くの教会、国民、マスコミの批判を強く受け、まさにサタンがわがもの顔で暴れて善良なクリスチャンを血祭りにあげた悲惨な事件として取り上げられました。しかし、神様の導きに従い、1990年2月4日に、殉教が起こった刑務所のその場所で集会がもたれました。そして、事件は主の許しの中で起こった事であり、その事を感謝し、その事のゆえに神様をほめたたえました。その後ろに神様のご計画があることを感謝しました。また主の勝利の宣言がなされました。それから教会は大きく変わっていきました。殉教事件に関わった教会や兄弟姉妹を神様は強め、さらに献身へと導き、分裂が許されていた教会も逆転の御業(みわざ)により、多くの教会設立がなされ、今、何ひとつマイナスになっていません。しかし本格的な働きに入るのはこれからであり、マニラを中心としてフィリピン全土に神様の福音宣教の働きが進んでいくという事柄が語られました。その中でギフツが今回帰りにセブ島で賛美隊として立ったということも大きな意味合いをもっていると思います。
  また、翌日の16日の教会のデボーション箇所(聖書の通読箇所)は、大宣教命令が語られているマタイの福音書28章でした。確かに働きが大きく進んでいくんだなということが強く心に響きました。
  そして、大きく進む神様の働きを担うために、すべてのことに感謝することがキーポイントとなります。困難や問題に対し、感謝の対応、信仰の対応をとるときに、厚い壁が打ち破られ、神様の勝利の御業が現されていきます。
  私たちの人生に神様が計画をもっておられます。私の人生はまさに神様が変えて下さり、思ってもいなかった牧師として立てて下さいました。そしてあらゆる国に行って福音を語るように導かれています。同じように皆さんにも神様のご計画があるのです。まだ気付いていない方もおられるかもしれません。是非、神様にお祈りすることをお勧め致します。その中で神様にある最善の祝福された人生を歩み、信仰の対応を通して大いなる神の御業(みわざ)を見るということを覚えていただきたいと思います。
  主の御名を賛美致します。


(月刊「雲の間にある虹」2009年10月号に掲載分より転載)